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ファミコン互換機の製造数は?「BIT」編【第5回】 0 テクノロジー

ファミコン互換機を巡る大いなる謎、「互換機はどれくらいの数が作られたのか?」に迫る。連載第5回は「小天才」とならぶ草分け的存在であるBit Corporationこと普澤公司について見ていきます。

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台湾最古参の互換機メーカー

今回は「小天才」の台湾晶技(TXC)と並び称される、黎明期ファミコン互換機の雄、普澤股份有限公司 (Bit Corporation) を扱います。普澤は1980年に陳嘉旭 (C. S. Chen) と陳明詢 (Michael Chen) らが創業した会社で、もともとは制御系エレクトロニクスや病院等のシステム開発を中心に手掛けるコンピュータ企業でした。
1982年、彼らはビデオゲーム分野にも進出します。これはきわめて大胆な方向転換だったといえます。というのも同年の台湾ではビデオゲーム禁令が出されており、業界は壊滅的状況に陥っていたからです。それにもかかわらずビデオゲームに突き進んでいったのは、恐らくは禁令の対象とならない海外向けや教育用途での需要を見込んでのことだと思われますが、ともあれこの逆張り的な決断により、普澤は台湾における家庭用カートリッジ式ゲーム機市場の先駆的存在となっていきます。

アタリ/コレコ互換機から出発

普澤はまずアタリVCS/2600とコレコビジョンをリバースエンジニアリングによって解析し、これらの互換機を完成させるとともに、アタリVCS/2600用のゲームソフトも開発しています。社史によれば1983年に、普澤は台湾初となるビデオゲームカートリッジの自主開発に成功したとのことです。
また1984年7月24日には、アタリVCS/2600の映像処理回路(TIA)についての特許を出願しています(專利編號70671『電腦影像處理電路』)。もちろんアタリの了承を得たものではなく、解析結果を登録したニセ特許ですが、ともあれこの時までに彼らは互換機の技術基盤を完成させています。
そして同時期に、普澤はアタリVCS/2600やコレコビジョンを教育用コンピュータに仕立てた互換機、BIT60 / BIT90を世に問うています(市場にはほとんど出回りませんでしたが)。その後コレコビジョンとセガSG-1000を一体化した互換機を生み出したりもしました。
アタリVCS互換パソコンBIT60。現存品は1台しか確認されておらず、恐らく試験的なリリースだけで終わったものとみられる。画像出典
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コレコビジョン互換パソコンBIT90。本家コレコの互換パソコンADAMとはまったく設計が異なる。画像出典
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コレコビジョンとセガSG-1000を一体化した寶果創造者50。史上初の2in1アーキテクチャな家庭用ゲーム機だ。画像出典
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次なる標的:ファミコン互換機

1986年頃には台興電子(台湾晶技のグループ会社)らとともにファミコンのリバースエンジニアリングに成功。任天堂の手が届かない台湾において、ファミコン中枢部の特許を無断で取得するとともに、互換機の開発へと向かいます。そして台興電子は小天才IQ-180/201、普澤は創造者70という、最初期のファミコン互換機を代表する機種を生み出すに至ります。
ちなみに普澤らの無断特許はのちに任天堂からの異議申請で無効化されていますが、その頃すでに海賊版メーカーの群雄割拠は留まるところを知らない状況になっており、時すでに遅しでした。
「小天才」のほうは以前言及したように商業的に大成功を収め、世界じゅうに浸透していきました。しかし対照的に「創造者」は華々しい商業的成果を収めていません。この差は何がもたらしたのでしょうか。
普澤は当時台湾屈指といっても過言ではないハード/ソフト技術を持つメーカーでしたが、いっぽうで自社製品の売り込みはあまり上手ではなかったように見受けられます。香港にもディストリビューション拠点を構築し、貪欲に販路を拡大していた「小天才」とは、その点で大きく違っていたといえます。

普澤のマーケティング

とはいえ販路開拓に力を入れていなかったわけではなかったようで、たとえばどこよりも早くロシア市場に進出し、「創造者」シリーズ最初期型のBIT70を流通させたりもしているのです(実はロシア初のファミコン互換機はDendyではなくBIT70だったとみられます)。けれどこれも売れたのはごく僅かで、市場に広く浸透させるには至りませんでした。ロシアだけでなく本場台湾、欧州、中南米……どこの市場においても、先行者としての強みを活かせたとは言い難いでしょう。普澤の市場浸透力は他の大手各社と比べて弱く、海外で有力ディストリビューターと組めた例は僅かしかありません。
ロシア語圏向けのBIT70。画像出典によると1989年(ソ連時代)には流通していたということなので、当時ほとんどの一般大衆は高価すぎて手に取れなかったものと思われる。
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例外的に、中国本土市場では目立った成果を収めています。しかしそれも長くは続きませんでした。彼らはファミコン互換機市場に安住せず、社運をかけてオリジナルな自社製ゲーム機の開発・製造へと舵を切ったのです。それこそが1990年に発売された台湾初のオリジナル携帯ゲーム機「GAMATE」でした。これは商業的には不振に終わり、経営難に陥った結果、普澤は1992年の第三四半期に事業を停止しました*。GAMATEの権利は同年、恆信電子という会社に引き渡され、その直後にUMCが同社を子会社化しています。
* "Asian Sources Gifts & Home Products" March 1993 p.286

普澤のオリジナルデザイン機

遅くとも1989年までに、普澤のビジネスは完全にビデオゲーム中心となっていました。さて普澤はどれくらいの数の互換機を製造したのでしょうか? 業績に関する資料は「1983~1984年以降、年平均50%のペースで生産量が伸びていた」という記述(『中國經建月報』 第 11~20 号, 1989年 p.78)が僅かにみつかる程度です。これはアタリ互換機等も含めた数字でしょうから、今回もシリアンルナンバーを手がかりに推理していくことにしましょう。

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ファミコン互換機の製造数は?「BIT」編【第5回】
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