ファミコン互換機の製造数は?「NASA」編【第7回】 2 その他

ファミコン互換機を巡る大いなる謎、「互換機はどれくらいの数が作られたのか?」に迫る。連載第7回は「NASA」ブランドの互換機で知られる菱立有限公司を見ていきます。前回の「Songtly」とも縁の深いこの企業は、NES型/スーパーファミコン型互換機のトレンドを作り出し、スペインを中心に90年代の互換機市場を席巻しました。

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謎に包まれていた「NASA」の背景

欧米のファミコン互換機を漁っていると、たびたび「NASA」というブランドを見かけるはずです。同ブランドより出ていたNESそっくりの互換機は、1990年代前半にスペイン~南米を中心に猛威をふるいました。特にスペインでは他の互換機の追随を許さない普及ぶりで、正規版NESの販売さえ圧倒する勢いでした。スペインは西欧で最もファミコン互換機の浸透が著しかった国で、「NASA」は同地を代表する互換機となっていました。
その後はスーパーファミコンそっくりのファミコン互換機を世に送り出し、これも世界的にかなりの数を普及させました。こちらは「NASA」だけでなく「GAME CITY」というブランドの製品も目立ちます。「NASA」や「GAME CITY」の各機種はライセンス品も含めて膨大な量が確認されており、総計すると間違いなく大手の一角といえるほどの勢力なのですが、その背後にある企業の姿は長らく謎に包まれていました。Unauthorizon公開以前は、どこの誰が作ったものなのか、誰も把握していませんでした。

德利有限公司

筆者は近年、「NASA」~「GAME CITY」の総本山が菱洋電子有限公司と菱立有限公司という、それまで誰も聞いたことのないふたつのメーカーだったことを突き止めました。両社についての公式な資料はほとんど残されていないのですが、その前駆的存在だった德利有限公司について扱ったかなり詳細な論文があります(蔡明宏「企業策略1  德利有限公司」,『臺灣中小企業之發展個案硏究曁論文發表會』(1994)所収)。
1983年設立の德利は、前年に台湾で施行されたビデオゲーム禁止令に対する逆張りそのものともいえる企業で、日本製アーケードビデオゲームの海賊版製造・販売を主業務とする形で事業を始めています。徳利を設立した高なる人物(フルネーム不明)は大学の電子工学科を優秀な成績で卒業し、しばらく軍に籍を置いた後、ビデオゲームの興隆に目を留めました。禁令下とはいえ抜け道がないわけではなく、アンダーグラウンドな需要は引き続き底堅いものがあると、彼は見て取ったのです。いわばハイリスク・ハイリターンを見込める仕事として、あえてビデオゲームを製造するという彼の目論見は早々に成功を収め、会社設立3か月後には設立資金の100万元を完済したといいますが、このようにアンダーグラウンドな性質の強い企業だけあって、同社に関する資料は蔡による論文の他には全く何も残っていません。
禁令施行直後に地下でひっそりと営業を続けるゲームセンター。資料出典:「不再來『電』——輿論聲浪高,電玩終被禁」(『台灣光華雜誌』1982年4月号)
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菱洋電子との繋がり

当時徳利と同じようなビデオゲームの地下製造を行っている会社は、高の見たところ台北には五社しかありませんでした。徳利はその中でも技術力が高く、かつ新作にも俊敏に対応できる機動力も買われ、まもなく高い評価を得るに至ったといいます。小さな空き家と6名の従業員でスタートした徳利は急成長し、売上高は1985~1986年にピークを迎えました。しかし1987年に政府が改めてビデオゲームの取締を強化したため徳利は深刻な損失を被りました。
この頃には従業員12名と100坪の工場を有していましたが、製造の6割以上をアウトソーシングしており、業態としてはシンプルなままでした。売っている物が物だけに宣伝広告を打ったりもできず、顧客の大半を口コミ頼りで獲得していた徳利は、ビジネスの多角化を検討せざるをえなくなります。最初は国際市場の開拓を目指し、海外での宣伝広告にかなり投資したといいます。しかしほどなく自社に国際的な競争力がないことが分かり、これは大失敗に終わりました。
結局徳利は、思いがけない形で経営の多角化を実現することになります。まだ事業が右肩上がりで推移していた1985年、徳利は家庭用ゲーム機に投資したことがありました。高の友人がアタリVCS互換機の金型を製造し、商品化に乗り出したがっていたので、製造資金を提供したのです。この友人がどこの誰だったのかまでは書かれていないのですが、さまざまな資料を突き合わせて分かったのは、これこそが菱洋電子だったということです。
菱洋電子は呂宗儀・徐美盆らが1982年に立ち上げた会社ですが、それ以上の詳細は不明です。菱洋電子のアタリ互換機は「孫悟空」の商品名で発売されましたが、かなりレアなものなので、それほど売れなかったものと思われます。いずれにしても徳利はこの段階では、家庭用ビデオゲーム機方面にはあくまで一度きりの投資をしただけで、それ以上深入りしようとはしませんでした。
DK-2528「孫悟空」。その存在も、菱洋電子の製品であることも、近年までほとんど知られていなかった。
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菱洋電子の英語名を示す保証書。
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菱洋電子はその後(恐らく1989年頃)ファミコン互換機にも手を広げ、ファミコン模倣型(NS-70N)とNES模倣型(NS-80)をそれぞれ1機種リリースしています。菱洋電子はこの頃から「NASA」のブランドを使いはじめていますが、同社製と断定できる「NASA」製品は現存数が極めて少ないので、依然としてビジネスとしてはさほど大きな成功を収めなかったものと見られます。
ファミコン模倣型(NS-70N)。主に中国本土で出回ったもので、映像出力がRF端子のみ、2Pマイク入力が残るなど、かなり古い仕様のファミコン互換機である(恐らく1988~1989年頃)
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コントローラに備わる黄色い連射ボタンと ”TurboCard” のロゴは、NS-70Nに特有のもの。
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NES模倣型(NS-80)。菱洋~菱立のファミコン互換機で唯一、メーカー名(DEKA ELECTRONICS INC.)の記載がある。
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